★私のプロフィール★ (2007.9月更新)
・私の生い立ち記 ・略歴 ・議会歴 をご紹介いたします。
<私の生い立ち記>
生い立ち記を書くにほどの年齢ではありませんが、市民の方々から「どこの出身地ですか」などの質問が多いので、簡単に私の歩んできた道程を紹介します。
わが古里を語る ・風光明美の里 ・製糸の町として発展 ・教職の道を目指しつつ ・母親の言葉が座右の銘 ・実のある改革を 風光明美の里
私は昭和23年10月、信州・諏訪地方の小都市・岡谷市で3人兄弟の末っ子として生まれました。岡谷市は盆地であり夏は暑く冬は寒く、決して住みやすい土地柄とは言えません。 生まれた場所は記憶にはありませんが、親(両親はもういません)から聞いた話ですと、市内の諏訪湖に近い上浜という所で庭には大きい木があり2階建ての大きな借家だったそうです。そこから私が生まれてすぐに今井という塩嶺峠(塩尻峠ともいう)に近い長屋の市営住宅に転居しました。
岡谷市という所は人口が5万人ほどですが、私の住んでいたところからの景観は東に八ヶ岳を望み、南にははるか諏訪湖が眺められ、その先は天気が良い日は富士山を見ることができます。 北側は冬には寒風吹きさす塩嶺峠(塩嶺おろしといいます)、南北を縦断する横川が流れ、まさに人間が育つ上で必要な山河に囲まれた地域でした。暑さや寒さが厳しいとはいえ、塩嶺峠から見下ろす風景は絶景です。まさに「風光明美な里」として訪れる旅人の心を癒す町です。そんな田舎で私は毎日、雄大な白雪抱く八ヶ岳を見て己の夢を膨らませたことも、しばしばでした。
製糸の町として発展
岡谷市は、当時は製糸の産地として発展しており、製糸工場が林立しており、伊那地方から働きに来る人達で賑わっていました。その後、「東洋のスイス」といわれたように機械の電子部品製造としての、精密機械都市として成長していくことになります。 私はこの地で高校時代まで育ちましたが、もうそれ以上の年月がこの習志野市で経っていますので、「故郷は遠きにありて思うものなり」を痛感しています。今は両親もいないので2年に1回ぐらいしか帰っていません。ベビーブームの少年時代はご多分にもれず山や川で真っ黒になるまで遊びました。 とにかく子供が多かった時代ですから、隣近所には同世代の友達がいっぱいいて、仲間意識も強く楽しい日々であったことを、今でも思い出しながら懐かしさが込み上げてきます。
家のすぐ近くに県立岡谷工業高校があり硬式野球の練習にはよく見にいったものです。そんな影響もありちゅうちょなく、そこの工業化学課を希望しました。化学に興味があったわけでなく、担任の先生の勧めもあり将来などをあまり考えずにそこに入りました。 この高校は諏訪地方でも有名なバンカラな校風で私の気性にあっていたようで、全く自由な伸び伸びとした学校生活を送ることができ、いまでも当時を思い出します。卒業式では先生を胴上げしたり、卒業生が在校生にむけて座布団を投げて(プレゼント)いく風景はまず、どこの学校でも見られないでしょう(今はしているかどうか分かりませんが)。
教職の道を目指しつつ
高校卒業後、東京・墨田区の花王石鹸に就職し夜学の東京理科大学の理学部に翌年入りました。私の配属先は食用油を研究している食品研究所でした。ビーカーを振ってビスケット等に使う油の研究をしました。
夜の大学4年間で高校教員資格を取り、教員を目指すべく思い切って花王石鹸を退職しました。この時両親をはじめ多くの友人からも「どうして大会社を辞めるのか」と反対されましたが、教員の夢止め難く円満退職しました。 退職後、3ヶ月ぐらいバイトをしながら自分の目指す教職を求めましたが、結局、職につけず、悶々としていた時、先輩の勤めていた京橋にあった新聞切り抜きの会社に1年半営業マンとしてお世話になり、その間、進路を熟慮した結果、教員の道を断念することに決めました。
その後、諸先輩のアドバイスもあり縁あって聖教新聞社に入社することができました。昭和50年、26歳の時でした。2年間、編集局・校閲部で新聞づくりの基本を徹底して教えていただきました。 51年の暮れに衆議院選で公明党が大躍進し、党本部に転勤。国会議員の秘書として国会議事堂の中で仕事をすることになりました。この時から私自身が予想もしなかった政治の仕事に就くことになったのです。 あまりの転機にとまどうことばかりでしたが、国政の勉強をしたことは今考えれば大きな財産になっています。昭和55年、衆参議院・ダブル選挙で公明党は惨敗。私は千葉県本部へと転勤になりました。
母親の言葉が座右の銘 党千葉県本部に勤務して7年、昭和62年の地方統一選挙で習志野市議会議員に当選させていただきました。以来、6回の市議会選挙を経ました。 初当選の時に私は、今は亡き母親に厳命されたことを、座右の銘にしています。それは「公明党議員には多くの無名の庶民が支えていること。そうした人のことを忘れたならば、最早、公明党議員ではない。人間性を磨け。師匠を忘れるな」です。
この言葉の意味が議員になって21年で多くの人との出会いの中で、ようやく分かりかけてきました。そして、私の今日までの人生の来しかたを振り返る時、幸運にも厳しくも温かな良き先輩諸氏にめぐり合えたことです。
政治の道に進んで早30年。私は今、つくづく思います。それは「政治家には宗教的理念が必要」ということ。つまり、政治の根底には、人を思いやる心・慈悲の心……それがあるかどうかで視点が異なるのです。 もっと分かりやすくいえば、例えば、「カ゛ードレールをつけてください」との要望に対して、単に設置だけで終わらせるのか。あるいはその場所が高齢者や子供たちにとって、それが適切な位置なのかどうか。あるいは、道路や照明等で問題がないのかどうか……等々の探求とそれを支える「おもいやりの心」で対応するのかどうか、ということです。
したがって、困った人に同苦し思いやる、そして、精一杯の努力を傾注する……そうした普遍的理念が基本にあり、政策実現をしていくことが大切と、自分に言い聞かせています。
実のある改革を
今日、地方自治体では行財政改革により、政策をどう選択するかとの判断の重要性が増しています。地方市議会には、その意味から改革における議員としての見識ある議論と責任が不可欠です。 どこをどう変え、市民生活を向上させるのか、公平な負担のあり方等。キーワードは「実のある改革」だと思います。私はこうした課題に果敢に挑戦をし、市民要望を実現していきたいと考えています。 バブル後のさまざまな反省点を、今後の効率ある町の再生に向けての活力とし、議員としての使命を果たしたいと、思っております。 私の議員生活も早いもので20年を超えました。多くの方のご期待に応えるべき、今再びの決意で自身の今日まで培った、情熱と力を精一杯開花させ、習志野市の発展に尽くしたいと、念願しています。
<略歴を紹介します>
○長野県・諏訪地方の岡谷市出身。昭和23年生まれ。今井小、北部中を卒業。 ○県立岡谷工業高校・化学科卒業後、花王石鹸・研究所に入社、働きながら47年に東京理科大 学理学部・化学課を卒業。 ○新聞関係の会社を経て、50年1月に聖教新聞社に入社しその後、52年1月から党国会議員秘書、55年6月に党千葉県本部に転勤後、昭和62年4月の統一選で習志野市議会議員に。 ○その後平成19年の選挙を経て、現在6期。 ○趣味は絵画・写真鑑賞・旅行。
<議会の経歴を紹介します>
文教福祉常任副委員長 四市保健予防組合議員、 交通災害審査委員 自然保護審議会委員、 電算組織管理運営審議会長 青少年有害図書審議会委員、 市議会議員団副団長 民生委員推薦会委員、 住居表示審議会委員 中小企業資金融資運営委員、 風俗営業等審議会委員 旅館業審議会委員、 議会報編集委員長 議会運営委員、 民生経済常任委員 総務常任委員、 文教・福祉常任委員、 建設常任委員、 長期計画審議委員、 市有財産調査委員 通学区域審議会委員、 農業委員 市監査委員(2回)、 (財)開発公社理事 予算・決算委員長、 副議長 総務常任委員長等歴任。 党・市議会代表 。 党習志野支部長、 党総支部監査委員。 現在、総務常任委員長(2007/5月から)。
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